そしてついに、嘉永6(1853)年にアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航します。翌年(嘉永7年/安政元年)には日米和親条約が締結され、下田と箱館の開港が決定されました。ペリー艦隊は同年4月に箱館に入港しています。このとき幕府からペリー提督の応接を命じられたのは、松前藩家老・松前勘解由らでした。
幕府はペリーが箱館を去った翌月に、箱館奉行所を34年ぶりに復活し、箱館および周辺5〜6里(1里は約4km)四方(現在の函館市・七飯町大沼・木古内町札苅までの一帯)を松前藩から上知して(取り上げて)幕府直轄地としました。さらに、その翌年の安政2(1855)年、松前藩から福山周辺を除く蝦夷地の全領地を上知しています。
再設置された箱館奉行所の任務は、開港にともなう諸外国との応接(外交交渉)、蝦夷地の海岸防備、箱館を中心にした蝦夷地の統治でした。開港場となった箱館には、各国の領事館が置かれ、箱館奉行所は外国との重要な窓口となりました。 |
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(3)ペリー艦隊来箱時の絵図
(亜墨利加船松前箱館湊江入津之図)
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(4)奥州箱館之図(部分)
文久年間(1862年頃)の函館の絵図
赤線で囲った部分が箱館御役所、現在の元町公園付近 |